日本共産党掛川市議会議員 勝川しほこ

略歴/私の歩んだ道

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◎略歴◎

1959年(昭和34年)7月 掛川市生まれ

●掛一小・掛東中・掛西高・広島大学総合科学部卒

●神奈川県で小学校教諭、島田市たけのこ保育園調理員・保育士、掛一小学童保育所ひまわりクラブ主任指導員、袋井市親子交流広場館長、パート調理員など勤務

◎家族◎

●夫・三毛猫・社会人の3人の息子は県外在住

◎趣味◎

●服を手づくりすること・染物・織物・読書・草取り

◎好きなもの◎

●生き物全般・中島みゆき・赤・コーヒー

 

◎私の歩んだ道◎

●父母の生き方が原点

写真屋を営む自然好きの父(多郎)と小学校教員の母(美喜子)の長女として塩町に生まれる。何かあったら家族会議、食事の洗い上げはジャンケンで当番を決めるというような家庭で、「自分の考えを持って行動する人」「人のために生きるのが人生」と育てられました。 ー父母の生き方が私の人生の原点です。

●平和への熱い想い育んだ青春時代

広島大学に入学して原爆ドームや平和記念資料館などを訪れ、“ヒロシマ”の意味を知りました。被爆者から体験談を聞いたり、核兵器や戦争について学友たちと熱く語り学びあい、大学1年の秋”ヒロシマ”を二度と繰り返してはいけないと、日本共産党に入党しました。広島大学平和委員会のメンバーとして、学内や平和公園に「核兵器廃絶・平和と民主主義を守ろう」と声をあげつづけた青春時代でした。夫(正史)との出会いもこの時です。

●道は自分できりひらく

大学時代に母親と同じ小学校教員の道をめざすことを決意。しかし総合科学部では中学・高校の免許しかとれません。授業と並行して独学で小学校教員資格認定試験に挑戦、在学中に免許を取得しました。その後も、「保育士」「調理師」と必要になれば脇目もふらず独学で資格を取得する猪年生まれの”猪突猛進型”は今も健在。

なかったらつくろう!みんなの力で

長男誕生を機に、7年間赴任した神奈川県の小学校を退職して帰郷。3人の息子を保育園に通わせながら保育士や調理員に。ところが長男が小学校入学時に掛一小には学童保育所はありませんでした。市役所に陳情しましたが受け入れられず、「ならば自分たちで」と友人たちと掛一小・城北小合同の学童保育所の開設を決めました。しかし指導員は見つからず、保育園を退職して自分が指導員に。実績をつみながら数年後には掛一小と城北小を分離するまでに広がっていきました。保護者会運営の学童保育として、「入所希望者は切りすてない」という信念で東奔西走。地域のみなさんや学校の協力を得た運動から、素敵な学童保育の専用施設実現にこぎつけました。

●子どもたちのためならアキラメナイ

掛一小のPTA役員をしていた2005年のことです。「新町踏切が危ない」とお母さんからの訴えが寄せられました。早速、毎朝踏切に通い、通学時間や遮断機の下りる時間、車の通行量などの実態を調査。雨の日などに遮断機の下りた踏切に子どもが取り残されかねない実情や右折車・左折車によって2車線状態になり歩道が十分に確保できない現状を学校や警察にはたらきかけました。熱心な訴えから運動は広がり「通学路の変更」「歩道と車道を分離するポール設置」などが実現。安全性が確保されるまでは保護者の皆さんといっしょに毎朝踏切にたち続け、子どもたちを見守りました。

●フクシマを忘れない 浜岡原発再稼働ノー

2013年秋、18年間勤めた学童保育所を退職し、福島の「土壌スクリーニングボランティア」に参加。一枚一枚の田んぼの放射能測定に携わりました。その後も二度にわたり津波被害と原発避難の二重苦に苦しむ浪江町を訪問し、仮設住宅や流された船や車が放置されたままになっている”時間のとまった町”を見て、「フクシマを忘れない」の思いを新たにし、毎週金曜日は「浜岡原発再稼働反対」の金曜アクションに参加しています。

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